連載小説「いしのわた」10話

 

不条理

 

 

 

通っていた堀切病院の院長に美代子は呼ばれた。院長室には担当医師と担当看護師と院長が座っていた。

 

「石川さん、ご主人のことですけど残念ですけど治療方法はありません。病院か自宅での選択可能です。病院でのホスピス形式を望むのであれば紹介する病院もあります」

 

美代子は癌の末期に奇跡はほとんどないし確実に死を迎えることを受け入れていたので答えは決まっていた。

 

「先生これまで有難うございました。自宅に連れ帰ります・・・」

 

茂夫の身体は石綿に日々蝕まれていった。食べたいと思いがあっても嘔吐が続き咳き込んでいった。飲み込む力がなくなるので嘔吐用のプラスチック桶を常にそばに置く生活。

 

やせ細り布団から出て動くことも苦痛になっていた。鎮静剤の服用も量と回数が増えるだけだった。

 

十月の半ばだった。茂夫が布団から出てこなかった。美代子は布団から出てこない茂夫を見に行った。顔色がおかしかった。

 

「お父さん、お父さん大丈夫、大丈夫」

 

と叫んだが返事は無かった。すぐ堀切病院に電話し、義妹のサヨ子にも電話した。

 

堀切病院に主治医が偶然にも当直でいたので自宅に駆けつけてくれた。看護師が酸素マスクをしてくれた。呼吸を測る数字がだんだん減って来た。美代子とサヨ子は叫んだ。

 

「お父さんお父さんがんばるんだよ・・」

 

「茂夫あんちゃん茂夫あんちゃん・・・」

 

二人の息子も来てくれていて、四人は懸命に呼んだが茂夫は何も答えないで旅立って行った。美代子は余命を告げられていたので余り苦しまないで静かに眠ったのがせめてもの慰めだった。

 

 死亡診断書には、死亡名中皮腫、原因蘭には石綿と記載されていた。美代子は原因蘭の『石綿による』に目がいった。アスベストが身体に悪いということを現場では誰も知らなかった。教えてもくれなかった。持病とか不意による事故なら諦めもつくが、ただの大工職人が現場の材料を吸って亡くなるなんて。

 

 

 

茂夫が亡くなって半年が過ぎたころに組合から一枚のハガキが届いた。内容はアスベスト被害者が裁判をおこすので説明会を行いますと書いてあった。久しぶりに組合事務所に出かけた。

 

組合事務所の玄関にアスベスト裁判説明会二階会議室と書かれた用紙が貼られていた。部屋に入ると十人を超える人が机に座っていた。みんな初めての人たちなので交わす言葉も無かった。

 

松本が司会をして橋本弁護士から説明があった。
「今日はアスベストで被害を受け労災認定された組合員さん、残念にも遺族になった人に集まってもらいました。アスベストの被害にあった人はアスベストが悪いということを知らないで建設現場で吸ってきました。アスベストの危険性を知っていた国とアスベスト製造メーカーを相手に首都圏の建設組合で裁判をすることになりました」

 

「今、橋本弁護士さんから概略説明が有ったように皆さんに是非ともみなさんに原告になってもらいたです」

 

なんとなく出席していた美代子だったが、茂夫の死亡が原因はアスベストと聞いていたが、悪いことを知ってそれを使わせられていたことに顔が火照っていくさまが自分で解るほどだった。松本は続けた

 

「皆さんは建設組合に入っていたから労災認定にもこぎつけました。これから四十万人とも言われる人にアスベスト被害が出るとの報道もあります。裁判を通じて世論に問いかけ次の被害者を救済するためにも原告になってもらえませんか」

 

松本は説得口調で語りかけた。出席していた皆がアスベスト裁判の原告になることに手を挙げたので美代子も自然と手が上がった。美代子は裁判なんて一生かかわることが無いと思っていたが、亡き茂夫の無念さを晴らしたい感情に襲われた。

 

 美代子は原告となる気持ちを固めた。弁護士との委任契約書に震える手で署名し捺印した。