連載小説「いしのわた」4話

 

母親からカタカナ交じりの手紙届いたからだった。

 

「茂夫カゼひかないでカセイでいるか。お前はマジメなこどもだがらドコさ行ってもできる子どもだ。実はイモウトのサヨ子だけどどうすても高等学校さ行きたいと言っている。オドウさんはそんな銭がどこにあると怒るばかりでコマっている。オラも野良仕事の草取りや道路のホソウ工事のニンプになってカセイでいるが月に五千円タリナイ。お前の兄たちはなんだかんだ言って返事が無い。申し訳ないけどひと月五千円送ってくれれば学校さイカセル。お前も大変だと思うけど助けてくれないか」

 

 茂夫のたった一人の妹であり背負って遊んだこともあり兄弟のなかで一番気持ちがかよっていた。何とかして力になることを決めた。

 

 

 

そんな時に中学校の先輩でビルの内装や学校関係の仕事をしている山本さんに誘われた。神武景気とかで高度経済成長になり建築ラシュがはじまり職人不足になっていた。茂夫は木工の職はいやでは無かったがもっと稼ぎの有る仕事をしたくなっていたときだった。

 

「茂夫、これからは仏壇とか神棚は仕事がなくなるよ。東京はビルがいっぱい建って内装大工の時代が来る。お前は木工をやっていて造作大工に共通するところもあるから一緒にやらないか」

 

山本は強く誘った。茂夫は仕送りのことも有るので内装大工になることを決めた。

 

内装大工はビルやマンションの内部の大工仕事。造作大工とも言い木工よりも細かくなかったので茂夫は苦にはならなかった。しかし、畳一枚のボードの荷揚げは小さい身体にはこたえた。

 

住込み生活から飯場生活に変わった。葛飾区金町の飯場か、暗いうちに朝飯食べてライトバンに五、六人乗って現場に向う。仕事が終われば飯場で賄いさんが作ってくれた夕飯を食べた。東北出身者が多いので訛りに心配はいらないし、食べる味付けもあった。住込みより気兼ねしないのが良かった。

 

現場では「茂夫」「茂夫」と呼ばれる声に喜べるようになってきていた。頼りにされるとますます張り切って働いた。

 

 内装大工の仕事にも慣れて一人前の職人になり手間も大夫良くなったので奉公した三河島の親方に挨拶に行くことにした。浅草で人形焼きの手土産を持って向かった。

 

「茂夫よく来てくれたな。今は職人も居なくなり見習い二人とやっているよ。お前も二十歳過ぎて一人前の職人なったからお祝いにいっぱい飲んでいけ。」

 

ということになり少しお酒をいただいた。飯場生活は酒がつきものなので飲めないと思っていた酒が少しは飲めるようになっていた。親方の饒舌に負けて帰るころには九時を回っていた。明日の現場は遠いので火照った顔で三河島駅へ向かって歩いたが、木工仕事が減っているのが目に見えたので親方が痩せたようで気持ちは沈んでいた。

 

三河島駅が見えてきたとき「ゴーゴーガチャーン」という金属衝突音が聞こえた。なにが何だかわからないが駅には入れなかった。仕方なく上野駅まで歩いた。上野駅の人でごったがえしていた。

 

「なんでも三河島駅で列車が転覆したらしい」

 

話が聞こえてきた。死者一一六人、負傷者二九六人の三河島事故が起こっていた。昭和三十七年五月三日の出来事だった。